歳を重ねて思う事・・それは一概に言える事が減ったことでしょうか。

 若い頃はとかく少ない情報から単純に良し悪しを決めつけて、一言のもとに断言していました。例えば、仕事のやり方一つにも「これは間違っている!」「これはダメ!」と決めつけが多かったように思います。しかし、後になって「一概に間違っているとも言えないな」「違う側面もあるな」「別の評価もできるかな」と検討の幅が広がっていきます。何事も見る角度、立場の違いで別の解釈、曖昧な評価があるものです。すると、単純に正誤・善悪・好き嫌いの二つに分けられなくなります。これが年齢・経験を重ねるということでしょうか。

 この業務日誌でもシンプルで正確な情報を心がけつつ、表現が二元論、極論にならないように配慮しています。例えば、病院に対する評価も、人それぞれの印象があるので、ここはダメ、あそこはいい、と断言することは避けています。実は内心、かなり評価がはっきりしていますが・・。また交通事故外傷の治療に関しても、接骨院・整骨院の効果を認めつつ、こと後遺障害の認定を前提とした場合は避けるべきと消極論に留めています。決して「ダメ!」と決めつけないようにしています。(断言が必要な場面もあるのですが・・)

 先日、昔の代理店仲間から「病院はダメ、病院では治らない、接骨院にすべき」との意見を聞きました。確かに大学病院や市立病院など大きな病院では手術するような大ケガでなければ、レントゲンを撮って薬を出すだけで特に何もしません。捻挫・打撲の場合、多くはそうなります。患者によっては疼痛コントロール、症状の緩和措置など、理学療法や接骨院の施術が必要となります。被害者の治療方針について、交通事故に関わる業者には適切なアドバイスが求められます。被害者は治すことと賠償の両方を考えなければならないからです。しかし「病院はダメ、接骨院にすべき」またはその逆、単純な二元論で答えるべきでしょうか?その患者にとってどのような治療手段とするか、それは簡単に割り切れるものではないのです。

 いつも言うように被害者の症状や置かれている状況から、最適な道しるべを示すことが私たち業者の最初の仕事と思います。そして被害者さんにも厳しく言えば、そのアドバイスや戦略が自分にとって納得のいくもの、ベストな選択であるかを吟味・選択する自己責任があります。何故なら先ほど「病院はダメ、病院では治らない、接骨院にすべき」と断言した仲間は接骨院と密接に提携しています。つまり、意見は商売上の立場に立脚しているからです。理学療法が充実し、優れた緩和措置を行う整形外科もたくさん存在するのに、それに対しては「・・・」です。
 これは連携体制を幅広く推進している私にも言える事です。私の意見は商売上の理由から選択されていないか?常に、自問自答する謙虚さが必要と自戒しています。

 さらに例を挙げれば、ある行政書士の仲間ですが、以前は「接骨院に行くな!」と言っていながら接骨院と提携した途端、「接骨院で治療(正しくは施術)しましょう」とあっさり宗旨替えです。または、接骨院・整骨院とは提携しない方針ながら、いつの間にか提携を前提とした柔道整復師向けセミナーの講師をしている者もいます。もう、商売上の都合だけでポリシーなど無きに等しいふるまいです。これらどっちにも転ぶ者は二元論者の最悪例、困ったものです。商売上の都合で主張・立場をころころ変えていれば周囲の信用を失ってしまいます。

 病院と接骨院、それぞれやや重なる部分(リハビリや緩和など)がありますが、そもそも役割が違います。患者はそれぞれの適用場面についてベターな選択をすればよいのです。どちらが良い・悪いの断言などできないはずです。言及すべきはそれぞれ院ごとの治療・施術の質についてではないでしょうか。

 単純な二元論では私達のようなコーディネーター(調整役)の仕事はできません。被害者の複雑な問題に対してmore better、より良い選択、次善策を検討、示していくことが使命だからです。
 
 交通事故は人が起し、解決もまた人が行うものです。交通事故の解決は「0°か1°か」温度計で判断するデジタル思考では立ち行きません。手を入れて湯加減を測るごときアナログ思考で対処することばかりなのです。