今年の病院同行ですが、今月師走が一番回数が多かったようです。先週は長野県の飯田市、本日は早朝から山梨県の韮崎市と続いております。
長野県の南部の飯田市や伊那市など、南信州は東京からの交通が不便です。中央線で東京から甲府を抜けて行きますが、南アルプスが邪魔しますので、まっすぐに行けません。諏訪湖ほとりまで進んで大回りすることになります。さらに、特急は松本へ行ってしまいますから、本数の少ない各駅停車で、てくてく山脈の裾野を進むことになります。したがって、新宿からのバスで4時間半の方が早い。新幹線や飛行機ならば、北海道や九州含め日本各地へ、大抵2~3時間で着きます。つまり、南信州は東京から最も遠い地域の一つなのです。
山脈級の谷に挟まれた地域は交通が限られます。戦国時代に遡れば、このような地域は街道を押さえれば守り易い。飯田城はまさに南信州の門の役割です。今回、宿泊したホテルは飯田城跡で、見晴らしいのよい高台にありました。尾張、遠州から信濃へ侵入した軍はここで阻まれることになります。逆を言えば、信州の山間から東海道に下るのは良いとして、引く時(軍を戻す時)は大変だったはずです。守りに易いということは、攻めには不利となります。
甲府盆地に守られた武田家は、1582年の織田氏・徳川氏らの3路同時侵攻であっけなく滅亡しますが、それまでは盆地の山々に守られておりました。また、交易の利益から海に出ようにも、太平洋側には同盟と破棄を繰り返した今川氏と北条氏があり、日本海側には宿敵上杉氏との4回の対戦を強いられ、東には混沌の関東平野、広すぎて海はまだ遠い。このように地勢的には内陸地、守成の地となります。敵に囲まれつつも攻め込まれることは少なく、敵の侵入を受けても撃退は容易でした。ただし、支配地の拡大政策を進める中、農閑期に平野に下りて戦をして、山に帰って畑仕事の激務・・その繰り返しで甲州兵は相当に消耗したと思います。
その後はご存知の通り、信玄はこの南北東3方の問題を片付け、ようやく西方、京への上洛を目指すも、飯田城のすぐ西側の駒場で亡くなり・・とうとう信州を出ることができませんでした。
新府城と躑躅ヶ崎館の中間辺り、双葉インターの信玄像京を抑えるには、京までの道が平野であることは大変なアドバンテージです。この点、織田氏は有利だった。しかも、信長は京に続く他国への進軍・侵略に伴い、本拠地を4回も移転しました。逆に甲府盆地と信州は山に囲まれた天険の地、移転には相当な決断が必要だったのでしょう。武田軍を構成する土着の豪族達も、先祖代々の土地への執着が捨てられるわけがありません。
戦国時代は、大航海時代を経て、世界各国で航路と物流の大変革が起きて、大量輸送と移動のスピードアップが進みました。土地の支配と要害割拠から、物流拠点とルートの確保へ、係争地は面から点と線に変わったと言えます。そのような環境下で勝ち残るには、軍隊はもちろん、人・物・金すべての移動においてスピードが欠かせません。やはり、山間部の覇者は遅れを取ったのです。
往復9時間のバス旅で揺られながら、そのようなことを考えておりました。旧い価値観から新しい価値観へ移行することは、いつの時代も難しい。歴史はいつも教訓を残してくれますが、それを咀嚼し応用することも、これまた難しい。刻々と業界の変化が進む中、先進的なアイデアが必要と感じています。年末年始の休暇で脳の疲れを取り去り、色々と計画を練りたいと思います。